第十四章 やさしくしないで(014)

 

 次の日もその次の日も、遠野とは必要最低限の会話のみ。不自然な日々が続いていた。
 その日、瀬谷課長が二日間の出張から帰って来て会社に出社した。周囲の人たちが返って気を遣ってくれている気配を感じる。いたたまれない空間に、今すぐここから逃げ出したい気分だった。
 同じ部署の社内恋愛。都合のいい時もあるけど、こんな状況だと救いようがない。

「確認お願いします」
「そこに置いておいて」

 瀬谷課長の声も冷たい。あれだけ私に執着していた姿はすっかり消え失せ、とても迷惑そうだった。
 無理もない。私の立場よりも彼の立場の方が悲惨だと思う。家庭を持った立場、部下のいる役職を持った立場。とんでもない女に関わったと後悔しているに違いない。
 あの時、私が逃げ出さなければ、話し合いの場をホテルの部屋で妥協していれば……こんな事態にはならなかったのかな?

 それからの日々も、なるべく目を合わせないようにしながら仕事をこなした。瀬谷課長に用事があればなるべくまとめてすませ、書類を置きに行く時は瀬谷課長が席を外している時を見計らっていた。
 毎日が憂鬱で、日に日にストレスが溜まっていく。いつになったら会社を辞められるのだろう。考えることは、毎日そのことだった。


 ◇◆◇


「カタログが届いた連絡が入ったから本部に取りに行ってくる」

 夕方、外回りから戻って来たばかりの遠野に向かって言った。
 カタログとは当社が生産している製品カタログのことで、代理店を通して各業者に配布される。代理店に配布するカタログはかなりの冊数だった。おそらくダンボールで数箱分になるはず。当然、一人で運ぶのは大変だけれど手押し台車を使えばなんとかなると思った。

「俺も行く」
「どうして?」
「運ぶの、手伝うよ」

 久しぶりに交わしたまともな会話。遠野が怒っていなかったことにほっとして、涙が出そうになって感動すら覚えた。

「いいよ。遠野は、忙しいんだから。それに台車で運ぶから一人でも平気」
「一人だとエレベーターの乗り降りも大変だろ」

 荷物を乗せた台車を押しながらエレベーターに乗ることは決して楽ではない。ぶつからないように気をつけなければならないし、扉が閉まる前に移動させないとならないから。
 他の部署の人がエレベーターに乗り合わせている時はエレベーターの扉の開閉ボタンを押して、さり気なく手伝ってくれるんだけど。不倫が明るみになった今となっては、私にやさしい手を差し伸べてくれる人はもしかするといないのかもしれない。

「……じゃあ、お願いしようかな」

 お言葉に甘えることにした。

 保管用倉庫まで赴くと、腕まくりした遠野がせっせとカタログを台車に積んでいく。40センチほどの幅のあるダンボールは見た目以上に重いのにそれを軽々と持ち上げていた。
 一方、腕力、握力ともに貧弱な私はようやく一箱を台車に乗せたところ。
 やっぱり男の人は違うなあ。

「俺が運ぶから、佐々木はそこにいろ」

 額の汗を拭っていると遠野が荷物を運びながら言った。

「うん、ごめんね」
「どうせ一人でやった方が早いから」

 照れ隠しなのか、少しだけ嫌味つきだったけど。でも、そんなセリフも今の私はさらっと受け流せられる。言葉の向こうの遠野の気持ちが伝わってきたから。


「ありがとう。ほとんど遠野にやらせちゃったね」

 結局、ダンボール六箱分だった。台車も相当重いはず。その台車まで押してもらって何のために自分がいるのか分からない。

「こういうことは男にやらせろよ。遠慮することねえんだから」
「……うん」

 営業で外出することの多い男性社員にはどうしても頼みにくくて、今まで力仕事もなるべく自分でこなしていた。あまり腕力に自信はないけど、こういった雑用は私がやるべき仕事だと思っていたから。
 なら、できれば遠野に頼みたいな。こうして二人きりになれるんだもん。
 だけど、もうこんな機会はないんだよね。私はもうすぐ会社を辞める。遠野に会うこともできなくなっちゃうんだ。もっと早くこんな関係になりたかった。そうしたら、何かが変わっていたのかな。聡子さんじゃなくて私と……?
 いやいや。考えるだけ無駄だ。だってもう遠野は──
 私はやるせなくて下唇を噛んだ。

「他の奴に頼みにくいんなら、俺に言え」
「……遠野」
「女がお茶汲みさせられるのと同じように、力仕事は男の仕事なんだぞ。どうせなら女である部分を利用してもっとズル賢くなれって」
「……う、うん」

 こんな時にやさしさを発揮するなんて卑怯だよ。今までこんなにしてくれたこと、あった? 瀬谷課長とのことも何も訊いてこないことだって、私に気を遣っているからなんでしょう?

「ほんとに分かってんのかよ?」

 遠野の声は限りなくやさしい。乱暴な言い方なのに、どうしてこんなにも胸を打つのだろう。
 もうダメだよ。遠野のやさしさが沁みてきて、涙をがまんできそうにない。

「今度から、そうする」

 それでもなんとか声にした。それが精一杯だった。
 もっと可愛い言い方があったのに。どうして私はこうなのだろう。


 蒸し暑い倉庫の中は薄暗く、おまけに埃っぽい。今はもう夕方だから荷物の搬入のピークもとっくに過ぎ、人の出入りも頻繁ではなかった。
 みんながいるオフィスの中で、ずっと張りつめさせられていた気持ちが、遠野の存在によって楽になっていくのを感じていた。ようやくほっとする瞬間がきて緊張の糸が緩み、作っていたニセモノの仮面がポロッと剥がれ落ちるように、私の内面が露わになる。

「佐々木?」
「何?」
「今は辛いだろうけど、必ず今よりも状況は良くなるから。それまでの辛抱だぞ」
「……うん。ありがと」

 遠野は私が退職届を出したことを知らない。
 私が会社を辞めたら、どう思うだろう? 少しは寂しいと思ってくれるかな? きっと、私の席には新しい女の子が配属されてくるはず。どんな女の子がくるのかな? その子に遠野はどんなふうに接するの?
 どんなに頑張っても聡子さんの立場になれない私が唯一、いられるポジションだった。それも失うのかと思うとひどく悲しい。

「大丈夫か?」
「大丈夫」
「だったらもう、唇噛むの、やめろよ」
「だって……」

 男らしく太い声なのに妙に艶のある声色が鼓膜を通して全身に響いてくる。好きな人の声はそれだけで威力があるのに……

「せっかく可愛い色なのに落ちちまうだろ」

 甘い瞳で見下ろされ、遠野の指先が私に向かって伸びてくるのでビクッと肩が揺れた。さらにその拍子に顔を逸らしたせいで、伸ばされた指先は顎のラインの端を掠めていった。
 だけど遠野はわずかに微笑みを浮かべている。
 何がおかしいの?
 私だけドキドキしていた。

「逃げんなよ」

 何から? それを訊く暇もなく、もう一度伸びてくる指先。

「動くな」

 低い囁き声で命令されて、言う通りにしていたら、余裕の表情でその指は私の唇の端をとらえた。そして親指とひと指し指で唇の端をピンと伸ばし口角を上げるように固定すると遠野は満足気な顔をした。

「これでよし。佐々木はこんなふうに笑っている方が可愛いよ」

 ……馬鹿、遠野。そんなことしたら涙腺が持たないじゃないか。笑うどころか、それ、逆効果だよ。
 それから言う相手、間違ってるよ。“可愛い”という言葉はね、大切な人だけに言うものだよ。
 遠野の好きな人──
 いいなあ。聡子さんが羨ましい。聡子さんは幸せだろうな。だって遠野にこんなふうに励ましてもらえるんだもん。いつでも。この先も。ずっと遠野を独占できるんだ。

「心にもないこと、言わないでよ。今の私の顔、すっごいブサイクに決まってる」

 必死に涙を堪えていた。きっと、とんでもない形相だよ。

「そういえば、そういう顔、今まで見たことなかったな。だから物珍しくて、可愛いなんて錯覚しちまうのかも」
「やっぱり遠野はそうでなくちゃ。イジワルなくらいが丁度いい」
「慰めてやってるのにその言い草はねぇだろ。だいたいな、最初に敵意むき出しでつっかかってきたのは佐々木なんだぞ」
「そうだった?」
「去年の納涼会の時にいきなり喧嘩ふっかけられたんだよ」
「あれは……」

 思い起こせば、去年の夏──

 会社が提携している宿泊のできる保養施設で『納涼会』という名の一泊の宴会が開催された日。

『佐々木さん、田中部長が探してたよ』

 そう言って二次会のカラオケの時に私に話しかけてきたのは販売推進部の見知った先輩。お座敷での宴会の時にお酌されて、少しだけ話した人だった。保養施設内にあるカラオケルームを大部屋小部屋合わせて数部屋貸し切っての二次会は大盛り上がり。

『私を?』
『田中部長の部屋にみんなが集まっているんだよ』

 二次会はカラオケルームだけでなく、各部屋で個別にしている人も多かった。近くのコンビニでお酒を買い込んで、部屋で飲み直すグループもいくつか。

『分かりました。お部屋に行ってみます』

 とは言ったものの、田中部長の部屋番号を知らない。すると『案内するよ』と言われて、言われるがままついて行った先は……

『ほんとに田中部長が私を探しているんですか?』

 宿泊部屋からかなり離れた別館まで歩かされて、さすがにおかしいなと思い始める。

『ほんと、ほんと。もうすぐだから』

 そして……

『ちょっと! やめて下さい!』

 無言のまま連れ込まれたのは人のいない階段の踊り場。一般のホテルとは違い、ほぼうちの社員で貸し切りみたいなものだから、まったく人の気配がなかった。逃げようとしても抱きつかれて、胸まで揉まれてしまう始末。

『へえ、結構あるんだ』
『田中部長が探していたなんて、嘘なの!?』
『ごめんねー。そうでも言わないと信じれくれないと思ってさ』
 信じられない! この、変態!
『離してっ!』
『静かにしなよ。人が来ちゃうよ』

 そう言ってやめてくれない。酔っぱらっているせいもあるんだけど、これは絶対に確信犯だ。

『こんなことしていいと思ってるんですか!?』
『どうせ遠野にはヤらせているんだろ?』
『何、言ってるんですか? そんなわけないです!』
『でも同期だし、随分と仲良さそうじゃないか。みんなも噂してるぜ』
『同期で仲が良くてもそんなことしませんから!』

 もみくちゃになりながら逃げる隙を探していた。だけどあまりにも力が強くて……怖い……
 私自身も思うように力が入らなかった。さらに今度は後ろから羽交い締めにされて、動きを封じ込められ、そのまま床に崩れ落ちた。

『誰か! 助けてっ!』
『黙れって』
『イヤっ、触らないで!』

 絶対絶命! とにかくありったけの力で抵抗し続け、大声を上げた。


『あー! もう! 分かったよ』

 だけどその甲斐あってか、その人は諦めてくれて私は解放されたわけだけど……
 もう、やだ……キズを受けたことは事実。
 相手は酔っ払い。でも、こんな扱いを受けたことにショックで、騙された自分も情けなくて、一人、自分の部屋に戻る途中で涙が滲んでくる。その時に偶然会ったのが遠野だった。

『あ、佐々木。佐々木も来るか? 営業部の連中で、部屋で二次会やってるんだよ』
『二次会?』
『今日は全部、田中部長のおごり』

 そう言って手にしていたのはコンビニの袋。中には焼酎や缶ビール、つまみ類がたくさん入っていた。

『すっげー盛り上がってるぞ。他の部署の女の子もいるし、佐々木も来いよ』

 田中部長の部屋で本当に二次会が行われていたんだ。だけど、その二次会、いつからやっていたのだろう。営業部の私は誘われていないのに、他の部署の女子社員は誘われているんだ。私だけ仲間はずれ。挙句、あんな目にあわされて……
 私って、いったい何なの?

『──かない』
『え?』
『営業部のみなさんでどうぞ楽しんで下さい。私は行かないから』
『何、怒ってんだ?』
『別に。そうやって仲良くつるんでればって言ってるだけ』
『何だよ、その言い方。人がせっかく誘ってやってるのに』
『私、そういう慣れ合いが大っ嫌いなの。だから誘ってくれなくて結構です』

 ──最低な私だった

 あの時、すごく悲しくて心にもないことを言っちゃったんだ。今思えば完全に八つ当たり。
 遠野が悪いわけじゃないのに。私は他の部署の人とカラオケルームにいたから、声をかけられなかっただけだったのに。

「そんなことがあったのか。悪い、知らなくて」
「いいの。私、昔から生意気なところあるから。私が未熟なだけなのに人をうらやましがったり、妬んだり。カッコ悪いよね」
「だけど、佐々木を襲った男は許せねえよ。誰だよ、そいつ?」
「その人、去年の暮れに会社を辞めちゃったの。もともと会社に不満があったみたいで、私へのことも腹いせみたいな気持もあったのかもね」
「だからって、ひでーよ」
「いいの。もう、気にしてないから。それにセクハラなんて珍しくないよ。取引先の社長さんとかにもお尻とか触られるし」
「はっ? 何だよ、それ!? そんなことされてんのかよっ!?」
「深刻なことじゃないよ。一応、可愛がってもらってるから」

 小さな会社の社長さんの中にはそういう人がたまにいる。だけど、それをさらりとかわして、つき合うことも時には必要。企業の一員ならば、そういう開き直りを身につけないと社会の中で浮いてしまう。いちいち目くじら立てセクハラだの、訴えるだの言っていたら、のちのちの仕事に差し障りがあるから。

「遠野もいろいろ大変なことを抱えているように、私だっていろいろあるの」
「変なとこで強がんなよ」
「強がってなんてないもん。お尻や胸を触られるくらい、平気だもん」
「そんなこと、平気になるなよ。今度、そういうことされたらすぐ言えよ。助けてやるから」

 遠野だったら本当に助けてくれそうな気がする。いつだったか、可愛がってもらっている取引先の人に声をかけてもらい参加した小さな飲み会で、その人に身体を慣れ慣れしく触られたことがあった。だけどその時いた瀬谷課長は助けてくれなかったんだよね。
 好きな人の前で、他の人に身体をベタベタと触られることがどれだけ苦痛か。違う意味で辛かった。

「期待してないけど、その時はお願いね」

 少しだけ笑ってそう言った。
 私がついた小さな嘘。助けて欲しいけど、そんな機会はきっと二度とない……それを思ったら、再び涙が押し寄せてきそうになった。
 ……これ以上、やさしくしないでよ。

「遠野。私、トイレに寄って行くから先に行ってて」

 最後まで間抜けな私。自分の仕事を手伝ってもらった挙句に押しつけてしまった。
 ごめん、遠野。素直になれなくて。本当は思っていたよ。ありがとうって。照れくさくて口に出せなかったけど何度も何度も心の中でお礼を言っていたの。直接言えなくて、ごめん。
            



[2013年3月16日]

 
 
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