第十五章 恋敵に負けた瞬間(015)

 

「ふぅ……」

 トイレから出て1階のロビーの受付前を通りかかると、爽やかスマイルに目の前がくらくらとした。だけど笑顔に魅せられたのではない。

「そりゃ、そうだよねぇ……」

 遠野が聡子さんと仲良さそうにおしゃべりをしていた。しかも台車を置いたまま。私がトイレに行っている時間を考えて、相当な時間をここで費やしていたみたい。

「よかったぁ。心配だったから」
「ごめんな。でも、もう大丈夫だから」
「でも遠野くんて、すごい!」
「んなこと、ねえよ」

 ねえ、なんの話をしているの?
 今さっき私だけを見ていたその瞳には、もう別な女性が映っている。刻まれたやさしさという感動は、見る見るうちに小さくしぼんでいった。
 いくらなんでも、と思うけど、これが現実。つき合いたてだもんね。会えば足を止めたくなるものだよ。そうだよ。分かっていたことなんだから、いちいち落ち込んでどうする!
 もう一度、弱気な自分に気合いを入れた。

「遠野」

 ありったけの勇気を出して声をかけた。
 本当はすごく怖い。楽しそうに会話をしている二人にとって私は邪魔者だ。聡子さんに睨まれるかも。
 私に気づいた聡子さんがチラリとこちらに顔を向けてきたみたいだけど、その顔をまともに見ることができなかった。余裕の態度を誇示されたみたいで、屈辱的に感じた。客観的に、自分が哀れに映った。

「あ、わりぃ。今、行く」
「ううん。あとは私一人で運ぶから」

 それを言うだけで精一杯。遠野から台車を奪うようにハンドル部分を掴んだ。

「いいって。俺が運ぶから」
「大丈夫。これは私の仕事だから。遠野は、どうぞごゆっくり」
「はぁ。何言ってんだよ?」

 聡子さんの前だというのに嫉妬心丸出し。聡子さん、私の気持ちに勘づいちゃったかな?
 私は逃げるように台車を押して、エレベーターを目指し一歩踏み出した。自分が情けなくて涙が出そう。この期に及んで遠野が追いかけてきてくれないかなと思っちゃってるし。

 と、そこへ……

「遠野!」

 ロビーに響く低音の声は紛れもない、瀬谷課長だった。
 どこかに出かけるのか、ビジネスバッグを右手に、左手には携帯電話を持っていた。

 瀬谷課長と目が合う。久しぶりにお互いにじっと見つめ合っていた。少し疲れている感じ。やつれたような印象を受けた。その瞳に感情は見出せない。その理由は遠野と一緒だったからか、それともこの興味本位の視線のせいか。
 感じる視線はありとあらゆる方向からだった。周りにいた本社の人間が私と瀬谷課長のニアミスをおもしろがるように眺めている。その視線がいつものことながら、胸にグザグサと突き刺さった。
 何度味わっても慣れないものだな。

「はい!」

 遠野が瀬谷課長に向かって言った。

「何度も電話したんだぞ」

 瀬谷課長は、そう言うと持っていた電話を胸ポケットにしまった。

「すみません。気づきませんでした」

 スラックスのポケットから電話を取り出して着信を確認しながら遠野が言う。
 もしかして私の手伝いをさせたから、迷惑かけちゃったかな。

「ごめんね、遠野」
「なんで佐々木が謝るんだよ。おまえは悪くないだろ」

 電話をしまう遠野と目が合った。
 だけど、今の彼は私を可哀そうな目で見ている。きっとこの状況に同情しているのだろう。見たくもないのに視界に入ってきてしまう大勢の人の薄笑いの顔。遠野を通して繋がった私と瀬谷課長。大勢の人がその行方に何かを期待しているのは、嫌でも感じていた。
 それは聡子さんの手前、とても惨めだった。

「早く行きなよ。瀬谷課長、急いでいるみたいだよ」
「そうだけどさ」
「遠野はちゃんと自分の仕事があるんだから。そっちを優先して」

 頑張って唇の端を上げてみた。さっき遠野がやってくれたみたいに、できたかな?
 それでも私を気にしていたみたいだったので、「ほら、早く」と遠野の腕を引っ張ってやった。

「どこに行っていたんだ? ここで何してる?」

 瀬谷課長の声が少しだけ低くなった。怒っているような声は、間違いない、私がここにいるからだろう。周囲の人間たちから浴びせられる視線。それによる嫌悪感のストレスの矛先を私に向けてしまうことを、私は黙って受け止めることしかできない。

「すみません。ちょっと、倉庫に。今、戻る途中だったんです。何かあったんですか?」
「出かけるぞ。クレームが入った」
「なんの商品ですか?」
「先月、原記念病院向けに納品したコンデンサだ」
「分かりました」

 エンドユーザーへの緊急対応。遠野は事態を察し、慌てて瀬谷課長の元へ。だけど向かう途中、ふいに振り向いて、こちらを見た。
 離れがたかった気持ちがあったのは事実。その思いが通じたような気がして、場違いなのは分かっていたけど、私の胸は弾んでいた。心細かった心がふわっとした温もりに包まれている。

「じゃあ、行ってくる」

 いつもの声。営業部の中で、隣のデスクの私に必ず遠野は声をかけて行く。社会人として当たり前のコミュニケーションだけど、それはいつも私だけに向けられた言葉。今まで気づかなかった。当たり前の言葉が、場所を変えると、実はとても幸せな言葉だったんだ。
 だから大切に受け止める。
 あっ……。
 ……それなのに、次の瞬間、それは私のとんだ勘違いなのだと思い知らされた。

「行ってらっしゃい」

 受付に座っていた聡子さんが笑顔でペコっと頭を下げていた。女性ということをちゃんと意識して、計算し尽くした仕草。派遣社員として受付や秘書の業務をこなしてきた彼女は、私と違って男性を立てることが上手だ。
 私は今までどんなふうに遠野を見送っていただろう。顔すら見ることなく見送っていたような気がする。

『行ってくる』

 それは考えるまでもなく、聡子さんへのセリフだった。
 なんだ、そうだよね。私に言ったはず、ないよね。何を勘違いしているんだろう。滑稽過ぎる。
 行ってくる、行ってらっしゃい……まるで夫婦みたいな会話。言い慣れているような息の合った掛け合い。
 ……見たくなかったな。

 そして遠野と瀬谷課長はビルの外へと消えて行った。周りにいた人たちもいつの間にかどこかへ散らばっていて、いつも通りのロビーに戻っていた。
 急に静かになってしまった。私と聡子さんだけが取り残されたみたいになって、なんとなく気まずい雰囲気。私は、台車のハンドル部分をぎゅっと握りしめた。

「じゃあ、私もこれで」

 気まずさを隠すように台車をぐっと押すと同時に聡子さんに会釈して、今度こそエレベーターへ向かった。
 それにしても重い。遠野にまかせきりだったけど、こんなに大変だったんだ。私の力だとエレベーターにうまく乗ることができるか不安だな。もたもたしていたら、扉に挟まりそう……

 エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。だけど案の定、エレベーターの僅かな段差につまずいて、よたついてしまった。
 でもいいや。身体が挟まったら挟まったで……そう思っていたら、人の気配を感じた。

 聡子さん?
 いつの間に追いかけて来てくれたのか、彼女がエレベーターの扉が閉まらないようにボタンを押していてくれたのだ。

「どうぞ。ゆっくりでも大丈夫ですよ」

 ニコッと。とてもナチュラルな笑顔。
 受付からエレベーターまで、少し距離があるのに、わざわざ、そのために?
 さりげないやさしさを素直にありがたいと思った。遠野が彼女を選んだ理由がよく分かる。女の私でさえも、その笑顔に魅せられてドキッとしてしまう。
 敵わないよ。綺麗な上に性格もいいんだもの。完璧な女性っているものなんだなあ。

「ありがとうございます」
「いいえ。5階でしたよね」

 さらに私が降りる階のボタンまで押してくれた。

「はい。ありがとうございます」

 こうして聡子さんに助けられ、無事にエレベーターに乗ることができた。彼女の笑顔にお礼の意味を込めて、もう一度、頭を下げた。

「あ、佐々木さん!」
「はい……?」

 ほっとしていたところに、急に呼び止められ、台車のハンドルを握っていた手に力が入る。
 なんだろう。遠野のことかな?
 聡子さんが私に手を差し伸べてくれたのは、もしかするとそのことが関係しているのかもしれない。例えば忠告。遠野に近づかないで、とか。

「遠野くんも心配していたわよ」
「え?」
「部外者の私が口を挟んで気を悪くしたらごめんなさいね。噂のこと、聞いてしまったものだから」

 瀬谷課長のことか。遠野の奴、聡子さんにそんなことまで話していたのか。そうやって私のことを話題にして同情していたのかな? 二人で……

「ありがとうございます。ですが、心配に及びませんので」
「でも、あんな噂……」
「別に構いません。仕方のないことですから。それに言いたい人には言わせておけばいいんです。人の不幸を楽しんで、それでストレス発散でもしているんだと思います」

 ああ、なんて私は性格が悪いんだろう。仮にも心配してもらっているのにこの嫌味。
 だけど、こんな惨めな気持ちにさせられて、遠野との仲の良さをアピールさせられて、言わずにはいられなかった。

「佐々木さん、ごめんなさい。私、余計なことを言ってしまったみたいで」

 聡子さんが申し訳なさそうに瞳を細めて言った。それは決して同情ではなく、とても悲しそうな表情だった。
 聡子さん……もしかして本当に心配してくれていたの?
 こんな時でも彼女は美しく可愛らしい。それはもちろん顔だけでなく、心も。私の本心に気づいて、本気で謝っていたのだ。

「い、いえ。私の方こそ。あの……ごめんなさい。なんて言ったらいいか……。本当にごめんなさいっ。今言ったこと、忘れて下さい。自分のしたこと棚に上げて、サイテーですよね」

 完全、自己嫌悪。挙句の果てに、涙が浮かんできてしまって、さぞ見っともなく映っただろう。

 その時、タイミングよくエレベーターの扉が閉まった。扉の向こうに消えていく聡子さんが儚げに見えた。
 そして取り残された私。一人ぼっちの小さな箱の中。その孤独は、私の頭を冷やすのに丁度よかった。
 私には、愛される資格なんてないのだ。誰かの一番に……そんな夢を思い描いていたけど、それどころか、こんな僻みだらけの醜い心を持っていては、誰も好きになってくれないに決まってる。

 私はようやく決意ができた。誰かの幸せを願える人間になりたい。だから、遠野をきっぱりと忘れよう。少しくらいやさしくされたくらいで揺れないような強い心を持とう。
 会社を辞めるまできっとあと少し。そうなったら、どうせ顔を合わせることはない。そして、私はきっとまた誰かを好きになる。変わらなきゃ。今度こそは、私を、私だけを想ってくれる人に出会えますように。


 営業部に戻った私は、その後、黙々と仕事を再開した。
 翌日も、その翌日も、ただひたすら仕事に没頭する。
 やり残すことがないように。お世話になったこの部署に少しでも恩返しできるように。そうすることで不思議と辛さは軽減されていった。あと少し……その思いだけで突き進んでいた。
            



[2013年3月19日]

 
 
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