第十六章 いきなりラブホで!?(016)

 

 それから一週間後、私の退職届が田中部長に受理された。そのことを聞かされた会議室で、引き続き、田中部長と二人でそれについての話し合いをしていた。

「こんな噂を立てられては仕方ないな。この会社にいるよりも、よそで頑張った方が佐々木のためになるだろう」
「すみません。いろいろとご迷惑をおかけしました」
「こっちこそ、力不足で申し訳なかった。佐々木の仕事ぶりは、いつも感心していたから、ここで辞めさせてしまうのはもったいないと思っているよ」
「そんなことないですから。全部、自分でまいた種です。自分でしたことの責任は自分でとります」

 そして田中部長は私の今後のことをしきりに心配してくれて……

「それでな、再就職先についてなんだが、社長も力になってくれると言ってくれているから。希望があれば俺から社長に伝えておくよ」
「ぶ、ちょう……」

 たたみかけるような語り口に涙が溢れ、声を押し殺し、泣いた。父親というには少し若いけれど、大きく包み込むような雰囲気はとても安心できる。改めて、いい部署、いい上司に恵まれていたのだと実感した。

「いいえ。私が不倫していたことは事実です。ありがたいお話ですがそれは遠慮させて頂きます」

 涙ながらに返事をし、同時に一人で頑張っていこうと決意した。また一から人生やり直し。その方がいい。新しい場所で再スタートしよう。


 ◇◆◇


「佐々木、今晩、俺につき合え」

 定時になり、そんな強引なセリフが隣のデスクから聞こえてきた。──かと思ったら、無理矢理、営業部から連れ出された。

「ちょっと何なのっ!?」

 慌ててバッグを持った私の腕を引っ張った遠野は、またもや無理矢理に私をエレベーターに押し込める。営業部を出て行く時の周りの人たちの驚きようといったら半端なく、瀬谷課長も私たち二人を眉間に皺を寄せながら見ていた。
 エレベーターを降りて社屋を出ても遠野は私を離そうとしない。私は引っ張られながら、道のど真ん中で遠野に叫んだ。

「どこ行くのよ!?」
「いいから、ついて来い!」

 迫力ある声が返ってきて、遠野は怯むことなく歩き続ける。そして電車に乗せられて……



 連れて来られたのは見覚えのある建物の前だった。
 なんのつもりなの?
 目の前には瀬谷課長と来たラブホテル。このホテルの駐車場で私は瀬谷課長と別れ話で揉めた。そんな曰くつきのホテル。

「どうしてここに連れて来たの?」
「その前に何があったのか説明しろ」
「はぁ?」
「だから、あの日、ここで瀬谷課長と何があったんだよ? 本当は何も訊かないでおこうと思ったけど佐々木が会社を辞めるなんて聞いたらほっとけねえ」
「遠野に説明する必要なんてない」
「会社で出回っている噂。佐々木がしつこく迫ったなんてそんな話、俺が信じるわけないだろ」

 そんなふうに思ってくれていたんだ。てっきりストーカー女だと思われているとばかり思っていた。

「もういいの。終わったことだから」
「悔しくないのかよ。あんな形で会社を辞めるなんて」
「悔しいとか、そんなレベルじゃない。自分でもよく分からないけれど、……もう疲れたの」

 瀬谷課長にもう想いはないけれど、裏切られたショックは大きかった。あれから瀬谷課長からは一切、連絡はない。
 せめて『大丈夫か』くらいの言葉をかけてほしかったな。遊ばれていた。私は本気だったのに。瀬谷課長はそうではなかったんだ。

「来いよ」
「やだよ。絶対に部屋には入らない」
「いいから」
「いいわけないでしょ!!」

 周りのカップルがジロジロと私たちを見ていた。それもそのはず。ここはラブホテルのロビー。これではまるで遠野に無理矢理ホテルに連れ込まれそうになっている構図だ。実際、そうだけど。でも遠野の目的はそれじゃないはずだから、誤解と言えば誤解なのかな。

「おまえが大声出すから恥ずかしいだろ」
「だって……」

 結局、部屋を選ぶことになった。部屋のパネルを見ながら「どこにする?」と訊くので、そっぽを向いて「知らない!」と私が怒ったら、遠野が適当にボタンを押していた。
 ていうか、なぜラブホなの?


 ◇◆◇


 今、私と遠野はラブホテルの密室に二人きり。真っ赤な合成革のソファにダブルベッド。家具は白を基調としていて意外にもさわやかな部屋だった。
 私たちはその赤いソファに座っている。私は端の方に座り、なるべく遠野と距離を置いた。

「瀬谷が会社に残って、佐々木が会社を辞めさせられるなんて俺は納得できない」
「会社を辞めるのは私の意思だよ。会社は関係ない」
「同じことだ」

 遠野が言いたいことが分からない。

「どうせ会社を辞めるつもりなら、こと──しゃ……しろよ」

 突然、遠野が小さく何かを呟いた。

「え? よく聞こえないんだけど?」

 隣を向くと、遠野の耳が真っ赤だった。
 どうして照れているの?

「いいか。耳をかっぽじってよく聞けよ。一度しか言わないからな」
「う、うん……」
「……」

 とうとう顔まで真っ赤になってしまっていた。
 遠野? いったいどうしたっていうの?
 だけど、遠野は口ごもったまま。向かい合わせに座り直した私たちはしばらくお互いを牽制し合っていた。

 その時、遠野がネクタイを緩めるものだから、思わず自分の身体を守るように抱き締める。

「心配すんなよ。別に襲ったりしないから」
「ほ、本当?」

 私は確かに遠野を好きだけど、こんな形ではさすがに……

「急にこんなところに連れて来て、悪かった。びっくりしたと思う」
「ここじゃないとダメだったの?」
「……ここの方が手っ取り早いと思ったんだ。いろいろと」

 遠野の疲れ切った声が私の心を鷲掴みして虜にする。怖いと思う心境だったはずなのに、今はどうしようもなく寄り添いたくて仕方がない。

「急に会社を辞めることになってごめん。そのことを言えなかったのは、自分が惨めで恥ずかしかったからなの」

 責任なんて言葉で言い繕いながらも本音はそれ。それまでは、例えみんなにバレたとしても、今まで自分が成し遂げてきたことが確かなら堂々としていられると思っていたの。
 だけどそうではなかった。何もかも失う現実を見た。かつて愛していた人からも見放された。

「逃げることになるのは分かってる。だけど、そうさせて欲しい。新しい場所じゃないと、今の私はやり直せないと思うから」

 遠野は黙って私の話を聞いている。目を逸らさずにじっと私だけを見つめていた。
 感謝してるよ。私の味方になってくれたのは遠野だけだった。だから最後に素直になろうと思った。

「ありがとう。遠野と出会えてよかった」
「佐々木……」

 そしてようやく口を開いた遠野。覚悟を決めたように、私を見つめる瞳が強い眼差しとなる。

「俺……」
「うん」
「……」
「遠野?」

 そして、さっき呟いたセリフをもう一度、聞かせてくれた。だけどそれは想像を超えた度肝を抜く内容で……
 しんみりとした雰囲気が一気に吹き飛んだのだった。

「どうせ会社を辞めるなら、寿退社にしとけ」

 だっていきなりそんなこと言われたら、驚くしかないでしょ。話がぶっ飛び過ぎて、もはや、理解不能。

「はい?」
「だから二度も言わせんなって言っただろ」
「いや、意味がよく分からなかったんだけど?」

 真顔で訊き返す。
 遠野のことだし、真に受けてしまった途端、大笑いされて『勘違いすんなよ』とか言われそう。
 それとも仕事のし過ぎで頭がおかしくなった? まさかとは思うけど、聡子さんと勘違いしてない?

「……ったく。説明しなきゃ分かんねえのかよ?」

 項垂れる遠野の様子を見ながらますます意味が分からなくなる。だって遠野には聡子さんがいるじゃない。

「それよりいいの? 私なんかとこんなところに来て」
「は? 何で?」
「だって、行ってくるとか行ってらっしゃいとか……前に見せつけられたもん。もしかして同棲してるとか?」
「誰の話だよ?」
「だから、遠野と聡子さんだよ。聡子さんに悪いよ。大切な人、裏切っちゃダメじゃない」
「意味わかんねえのはこっちなんだけど?」
「言ってたじゃない。この間、ロビーで……」

 しばしの沈黙。そのうち遠野の顔が見る見るうちに歪んでいって、そして呆れ顔になった。

「あのセリフ。おまえに言ったんだけど?」
「私に?」
「シカトされたけどな」

 だって、あれは聡子さんに言ったんでしょう? だから聡子さんは『行ってらっしゃい』って言ったんじゃないの?

「でも聡子さんが……」
「佐々木がシカトするから、代わりに言ってくれたんだよ」
「え」
「ついでに訊くけど、会社の噂も信じてんのかよ?」
「だってみんなにいろいろ言われても否定してなかったから。それに見たもん。一緒に帰るところ」

 デートだったんだよね? 私、あの時、二人の後ろ姿を見て遠野のこと諦めようと思ったんだよ。

「あのなあ……」

 憤慨している遠野。めちゃめちゃ不機嫌な顔になって、私をすごい目つきで睨んでいる。
 おかしいな。気に障るようなことを言ったつもりはないんだけど。

「だって、つき合っているんでしょう?」
「違う」
「そう、なんだ……えっ?」

 ええっーー!? 違うって、違うの!?
 一瞬、聞き間違いかと思ったけど確かに聞いた。もしかして、私、ものすごい勘違いをしていたということ?

「聡子さんとはつき合っていないの?」
「それが事実なら佐々木をこんなところに連れてこねえよ。てか、ラブホに連れ込んだ時点で気づけよ、バカ」
「バカって言わないでよ!」

 じゃあ、どうして聡子さんとあんなに仲良さそうにしていたんだろう? 聡子さんに告白されたという噂もなんだったの?
 だけどそれにもちゃんとした理由があって、あとからことの真相を知った私は人の噂というものはどれだけいい加減なものなのかと呆れてしまった。

「私、てっきり聡子さんとつき合っているんだと思っていたから。遠野のこと、諦めようって頑張っていたのに」
「マジで?」
「あ、え?」

 やだ! 私、混乱して遠野に告白しちゃってるよ! どうしよう。バカ、バカ、バカ! 恥ずかしくて、遠野のこと、見られないじゃないか!
 だけどすぐに、動揺してあたふたしてしまっている私と対照的に冷静にこちらを見ていた遠野に気づき……
 ちゃんと伝えないといけないと思って。心を落ち着けて、改めて告白に挑んだ。

「す、好きだったよ。大好きなの。“見返り”の残業のせいだよ。あの時のたった数時間で好きになっちゃったんだから」
「それ、もっと早く言えよ。俺は毎日、どんだけ切なかったと思ってんだよ」

 海に誘った時、竹ノ内さんたちと飲みに行った時……そんな時もずっと複雑な思いをしていたという。
 私もそうだった。聡子さんと楽しそうに会話をかわしている遠野を見た時もそうだし、聡子さんを見ている遠野を想像するだけで心がズタズタになった。

「それでさ、さっきの話の続きだけど……」

 そして続く真摯な言葉──

「俺は本気だよ。今すぐにでも結婚したいくらいだから。もちろん、今すぐは無理でも、将来的に俺との結婚のことを考えて欲しい」

 胸を打たれた。ひとつひとつ丁寧に言葉を選ぶ遠野の姿がいじらしくて、でも、すごくカッコよくて……
 もったいないよ。私にはもったいなさ過ぎる。

「寿退社の話、冗談じゃなかったんだ」
「当たり前だろ。ついでに誤解すんなよ。結婚のこと、思いつきだけで言ってんじゃねえからな。これを言うために、毎日悩んでいたんだぞ。引かれやしないかって」

 大切に言葉を紡ぎだしてくれる。私から視線を逸らさずにまっすぐに見つめてくれる。嘘じゃない、冗談でもない。一生懸命に考えてくれたことを私に伝えてくれている。
 時々、隣のデスクから聞こえてきた溜息に何度くじけそうになっただろう。話かけてもどこか心ここにあらずな生返事ばかりで、何度涙がでそうになったか。
 ここ数日聞いていた溜息の意味──プロポーズのためだったんだ。

 そんな、いきなりのプロポーズ。しかもこんな場所で。ずっと夢見ていたのは夜景の見える展望台や穏やかに晴れた海辺、それから夜の遊園地とか。ロマンチックな雰囲気の中でプロポーズされたらいいなと思っていた。それが現実はラブホ。
 こんなシチュエーションじゃ、披露宴でみんなに言えないよ。なのに、本当だったら文句のひとつも言ってやりたいくらいなのに、こんなに感動している。最高のプロポーズだと思った。

 だけど、どうしても不安になるの。私はつい最近まで瀬谷課長と不倫していたわけで、そのことが会社の人たちにバレてしまった。
 それに、私たちはつき合っていたわけじゃない。相性とか、価値観とか、そういうことの確認が必要じゃないかって、心配になる。

「本当に私でいいの?」
            



[2013年3月19日]

 
 
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