[2013年3月21日]
私にはあたながとても眩しい。輝いているあなたの光を陰らせてしまわないか怖い。幸せにできるか自信がないの。
「どう言ったら納得してくれるんだよ?」
「だって、結婚はもっとよく考えてからの方がいいと思うの。だって私たちカレカノじゃないんだよ」
プロポーズだって、そう決断させていること自体、無理させていないかなと思ってしまうんだ。
段階を踏んで、ゆっくり育んで。そして時がたって、気持ちが変わらなかったら、その時にもう一度、プロポーズ──この際、逆プロポーズだっていい。そうした方がいいような気がする。
「時間を気にしているんなら無意味じゃないか? 俺たちはこの一年半、一週間のうちの大半を朝から晩まで顔を合わせてきたんだ。過ごしてきた時間は相当な時間になるんだから」
「でもお互いのこと、深くは知らないでしょう?」
「逆に訊くけど、何を知ればいい? 何を知って欲しい?」
そう言われて答えられなかった。
私は今回のことがあって、今まで知らなかった遠野のことをたくさん知った。遠野がそういう人なのだと私なりに感じることができた。
確かに。これ以上、何を知る必要があるのだろう。
「俺は佐々木と一緒に残業したり、海に行ったりして、やっぱりおまえしかいないと確信した。あの時のおまえが本当のお前だろ?」
「うん。一緒にいてすごく楽だった。遠野の前で素直になれた」
「じゃあ、問題ないよな」
「でも、それってすごく強引だよ」
「ならこうしよう。とりあえず、つき合おう」
「でも……」
「いい加減、観念しろよ。俺だってこれ以上、譲れないからな」
「遠野……」
「どうしてもそうしたいんだ」
目の回りそうな展開。つい昨日まで単なる同僚だったのに。
でも真剣な顔を目の前にして、ときめかないはずがない。本気だと言われて、さらにプロポーズまでされて……
だけど、やっぱりちゃんと段階を踏まなきゃダメ。絶対にこの関係を壊したくないから、余計にそこにこだわりを持ってしまう。
「展開、早いよ。正直、怖いの」
「早いどころか、逆に慎重になり過ぎたよ。そのおかげで瀬谷に寝とられたんだ。それを口実に近づいたのは苦肉の策だったんだぜ」
「それであんな意地悪したんだ」
瀬谷課長との関係を秘密にしてもらう代わりに見返りを求めたこと。それで遠野と嫌々残業することになって……
結果。その手に堕ちたのだから、良かったと言えば良かったのだけど。
「意地悪だと? 好きな女が他の男に抱かれているのを知ったら手段なんて選んでいられねえだろ。だいたいもっと早く俺のところに来ていれば、おまえはあんな目に合わなかったんだよ」
チクショーと遠野は顔をしかめた。その様子が自分を責めているように見えて胸が苦しくなる。
遠野のせいじゃないのに。悪いのは私なんだよ。そんなの考えるまでもない。
だけど遠野の言うとおり、もっと早く、瀬谷課長と別れていれば……瀬谷課長を怒らせることなく、じっくりと話し合って、うまく別れられたんだと思う。
私は自分の気持ちに気づき、一刻も早く瀬谷課長と別れたかった。遠野が好きと気づいた時、瀬谷課長に対する愛情が一気に崩れ去ってしまった。幻のように、思い出すら残らなかったんだ。
それから別れたい一心の私は、瀬谷課長と話し合う余裕もなく、一方的に自分の気持ちを押しつけて彼との関係にピリオドを打った。
それに納得できない瀬谷課長。だから話し合いをするために無理矢理、ラブホに連れて行ったのだ。
怒るのも当然。他に好きな人ができたと告げなかった私はなんて卑怯だったのだろう。男と女のルールを破ったのは私だ。
「そうだね。タイミング悪かったな。それに別れ方を間違えちゃった。だからあんなことになったんだ……」
そう言うと遠野は私の体を引き寄せて、私の頭を抱えるように自分の胸に押しつけた。
鼻をくすぐる香りは、煙草ではなく、香水でもなく、遠野の匂い。毎日のように一緒にいたから嗅ぎ慣れすぎて、これはもう遠野の匂いとしかいいようがない。パズルのピースがはまるみたいに、こんなにもピッタリと私の体に合うから不思議。
耳を澄ませると心臓の音まで聞こえてきた。近くに感じることの幸せを胸一杯に溜め込んで、苦しい出来事を思い出していた。
「それで駐車場で揉めていたんだな」
「……うん」
遠野がゴクリ喉を鳴らした。
私の代わりに怒りを感じてくれている。静かにそれは伝わってきた。
「ありがとう。でも私のために何かしようとは思わないで」
「だけどな──」
「いいの。私も悪いの。だからちゃんと罰は受けるよ」
「俺も悪かったんだ。もっと早く、……一年前におまえに好きだと言っておけばよかった」
「そんなに前から?」
「悪いかよ」
「だってその頃の私たちはそんな雰囲気なんてちっともなかったじゃない」
「佐々木に隙がぜんぜんなかったから誘いにくかったんだよ。誘うなオーラ全開だっただろーが」
「そこまでのバリア、張っていなかったよ」
「いや、俺のこと避けてたね。それに仕事中に話しかけても、つんけんした態度で跳ね返してきただろ」
覚えはあるけど、だってそれは遠野が私を嫌いなのかと思っていたから。
でも、元はと言えば私のせいなんだよね。去年の納涼の時以来、どこか素直になれなくて。その後も、遠野をことあるごとに妬んでいたから、結果、遠野も冷たい態度で返すしかなかったのかも。
「でも、悪態ばかりついていた私のどこがよかったの?」
「最初からそんなんじゃなかっただろ。少なくとも新人研修の時はそうじゃなかったから」
「新人の頃の私……なんか恥ずかしい」
「あの頃の佐々木は、素直でよく笑う奴だったよな」
遠野の私に対する第一印象。それを聞いてくすぐったい気分になった。
懐かしいな、新人研修。あの頃はみんな今よりも無邪気だった。
不安な気持ちで入社して、同期という仲間ができた。研修期間は学生生活の延長みたいで……そして、少しだけ会社の雰囲気に慣れてきた時期でもあって、ゆっくりと仕事に対する期待が膨らんでいた頃だったんだ。
忘れていた。あの頃の遠野は気さくで明るい印象で、そういえば、一緒によく笑っていたな。
「そうだったね。新人の頃は同期の子たちとも飲みにも行ったよね。あの時はまだ営業部に配属が決まる前で力が入っていなかったな」
「だけど隣の席だから必死に仕事に取り組んでいるのは伝わってきたよ。そういう姿が健気で可愛いと思っていて、気の強い態度を取られても憎めない奴だと思っていたんだ。けど……」
「そのうち憎たらしい女になった?」
遠野が言いにくそうにしていたので、代わりに言ってあげたけど……
「だんだん佐々木に嫌われていくから、マジでどうしていいのか分かんなかったよ」
苦笑いする遠野の顔をまともに見られない。
私、サイテーの女じゃん。ひとりで勘違いして、遠野のことを追い詰めていたんだ。
「ごめんね。ヒドイ奴だったよね。自覚ある分、恥ずかしいよ」
「でも好きだったよ」
「遠野……」
「佐々木なりに葛藤しながら頑張っていたんだろ?」
「……うん」
「全部、知ってたから」
「ありがとう」
「そういうところも好きだった」
ひとこと、ひとこと心を込めてくる。
真剣に。強く強く、この胸に響いてきた。
「一年前、お互い普通に話せていたら、その時、私は遠野を好きになっていたかな?」
「何言ってんだよ? そもそも俺を好きにならない理由はないだろ」
いい年しちゃってるくせに。遠野も子供っぽいことを言うんだね。前はそういうところで衝突していたような気もするけど。今はそれすら愛おしく思えるよ。
なんでかな? それが愛ということなのかな?
「遠野の言う通りかも。私も結婚を躊躇する理由がなくなった。結婚のこと、ちゃんと考えるよ」
すると「そうだろ」と遠野が得意気に言った。
ようやく自信が持てた。遠野の隣にいて恥ずかしくない自分になるんだ。惚れ直してもらえるくらいに。
「なーに、笑ってんだよ?」
「幸せだなと思って。バカだよね。失業する身のくせに」
「ほんとバカだな。でも安心しろ。お前一人養うことぐらい、できるんだからな」
瀬谷課長を好きだった時は、好きになればなるほど一人ぼっちだった。どんなに寂しくても解決のしようがなくて、ますます孤独感が強くなる。
だけど、今は違う。自分の気持ちをぶつけると、私を想ってくれる遠野の愛情が降り注ぐ。それがうれしくて、私は埋めていた胸の中から顔を上げた。
「何だよ?」
「顔が見たくなったの」
「もしかして、おねだりか?」
「うーん。どうだろうね」
すると私の唇から軽快なリップ音が奏でられる。遠野のキスは言葉とは裏腹で、やさしいキスだった。向かってくる熱い眼差しにうっとりとさせられて私は陶酔の世界に導びかれていく。
こんなに情熱的な人だったんだ。私に対する態度がいつも冷たかったから、ずっと冷めた人だと思っていた。もう、そのギャップ、反則だって。
そして今も続くキス。キスをしながらブラウスを脱がされ
「んっ……待って……」
スカートの左脇のファスナーを見つけられた。
「あんまり急がないで」
「どうして?」
「ゆっくりがいい」
いつも時間を気にされて急かされていた。ただそれだけの女みたいで嫌だった。だけどそれがなくなってしまったら、私は役立たずになってしまうから。応じながら、それでも役に立ってうれしいと思っていたけど本当は悲しみもたくさんあった。
それなのに遠野は私の気持ちをちっとも理解してくれなくて「意外に大胆なんだな」と、意味ありげに笑った。
「いや、だ、だから、そういう意味じゃないの!」
自分の言ったことに自分でびっくりしながら否定すると
「今のは冗談だよ。分かってるよ。おまえの言いたいこと」
遠野はそう言って、やさしく微笑むと先を続ける。
指先が素肌をなぞっていった。繊細に動き、時々、私の身体を探るようにうごめく。手の平で胸をやさしく包みながら、鎖骨に唇を寄せると、きつく何度も吸い上げた。舌を絡ませるキスはすごく丁寧。私が苦しくならないように適度に息継ぎを与えてくれた。
「おまえの唇、すげえ甘い」
「グロスのせいかな? ピーチエキスも入っているし香りもピーチだから」
「だからか。おいしそうで間違って食っちまうかも」
「ふふっ」
遠野の甘い言葉に酔いしれて、私はどんどん女になっていった。
執拗に胸の膨らみを弄ばれて、性急に官能の渦に落とし込む。指先が肌のあちこちを滑り、同時に落とされるいくつものキスが私の興奮度を増していく。
「やばい、もう、……」
脚を開かせて身体を沈みこませた瞬間の切なそうな表情が好きだと思った。遠野が好き。すごく好き。声も身体も、全部好き……
広い背中に腕をまわしてぎゅうって抱き締めて、抱き締められて。貫かれる私のカラダは悦びの声を上げた。
遠野に抱かれながら、生まれてきたこと、生きていることに感謝していると、あの日の海に沈む太陽が脳裏に浮かんだ。あの時は照れて自分の気持ちを誤魔化してしまったけど、きっとこういう結果を望んでいたのだ。瀬谷課長と別れる前の私は、遠野に指一本触れてはいけないと無意識に自制していたのだと今なら思う。
「やっぱ、おまえって可愛いよ。瀬谷にはもったいねえ。俺にも、だけど」
そのセリフが、あの“見返り残業”の夜に遠野がお説教まがいに言いかけたセリフだったことだと気づき、遠野の大きな愛を感じていた。
「それはこっちのセリフだよ。私の方が遠野につり合っていないと思うの。ねえ? ほんとに後悔しない?」
「しないよ。つーか、何だよ、それ。俺は抱きたくて抱いてんだよ」
遠野はそう言うと、動きにいっそう力を込めた。腰の動きが徐々に速まっていく。もうそろそろ、そんな予感をお互いに感じとる。そして、辿り着いた一番高いところから一気に堕ちる瞬間に──
「あぁっ……」
遠野が私を力いっぱい抱き締めてくれた。息がとまるほどに。そしてすぐ、切なそうに私を呼ぶ声が子宮の奥をぎゅっと締めつけた。
◇◆◇
ゆっくりと体力が回復していく。ぼんやりと見慣れない天井を眺めながら、そういえばどうして遠野は私をこんなところに連れて来たのだろうと改めて思った。
「瀬谷とラブホに行った噂を聞いた時、すげえ悔しかった。だから瀬谷に勝ちたかったんだ。それに瀬谷の奴、あんな逃げ方しやがって。だから奪って俺のものにしようと思った」
「ほんと、強引なんだから」
「それに……」
言いかけて言葉を止める。
どうしたんだろうと思って顔を見ると前触れなく勢いをつけてキスされた。
「急に何?」
「既成事実もありかなと思ってさ」
つまりそれって?
「そんなこと考えてたの!?」
「それだけの覚悟があって抱いたってことだよ」
「どこまでオレ様なのよ!」
「許せって。実際、避妊してやっただろ」
「そうだけど……」
自分勝手にもほどがある! もちろん、うれしいよ。私のことをそこまで好きになってくれたんだもん。
だけど遠野にはそこまでの覚悟はあっても、私にはまだそんな資格はないんじゃないかって、そう思うんだよ。
今の私はうしろめたさが邪魔してちゃんと前を向いていない。会社だって逃げるように辞める。次の就職先なんてあてもなくて、まずはそこからのような気がするんだ。