第十八章 衝撃の告白 (018)

 

 こうして一ヶ月後、私の退職の日がやって来た。

「田中部長にはなんてお礼を言っていいか。私を見捨てないで下さったおかげで、たくさん勇気をもらいました」
「礼を言われることは何もしていないぞ。上司として当たり前のことをしたまでだからな。それより、今までもよく頑張っていたけど、これからも頑張ってくれよ。いい報告、待ってるぞ」
「ありがとうございます。私、絶対に頑張ります」
「頼もしいな。でも佐々木は俺にとって娘みたいなもんだったから。いなくなるのは、なんだか寂しいよ」

 田中部長がやさしく声をかけてくれた。
 田中部長は見かけによらず情に厚い。それを知ったのはこの騒動がきっかけだった。
 それから営業部の人たちにも最後の挨拶をする。昨日の夜に考えていた言葉。せめて最後くらい、ちゃんとお礼を言いたかった。

「みなさん、いろいろご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。短い間でしたが、未熟な私のことを可愛がって下さって感謝しています。この部署で働いて身に付けた知識と経験は私の大切な財産となりました。新たなステップを踏み出せるよう、前向きに頑張ります。みなさんもどうか、お身体に気をつけて。お世話になりました」

 たくさんの拍手が聞こえた。頑張れよと言ってもらった。それを聞き、もう思い残すことはないと思った。仕事は他に探せばいい。今時、転職なんて珍しくもないこと。
 それよりも大切なものが私には残った。私はここで遠野に出会った。それはとても大きな収穫だった。

 最後に深々と頭を下げた。たくさん感謝の気持ちを込めて。
 そんな涙を誘う別れ際、その場にそぐわない淡々とした声が営業部に響く。

「あのー。急なんですが、俺から皆さんにお話があります」

 その声にびっくりして私は頭を上げた。
 声の主は遠野。澄ました顔して、みんなからの注目を浴びていた。今日の主役は私なのにと、変な嫉妬も芽生えなくもない。
 それにしても、この期に及んで何を言うつもりなのだろう?
 この時私は、遠野の企みをまったく知らなかった。
 ドキドキというよりハラハラしながら、その続きを待つ。というのも、瀬谷課長の話題を持ち出すのではないかと気が気でなかったからだ。
 すると──

「この度、佐々木麻衣は遠野麻衣となることが決まりました」
「えぇっ!?」

 私だけではない。フロアにいた人たち全員が驚きの声を上げた。
 どうしてこのタイミング? 確かに結婚の話し合いはしたけれど。そんな重大なこと、どうして私に黙って公表しちゃうのよ! 頭、おかしいんじゃない?

「ちょっと勝手にそんなこと言わないでよ」
「いいだろ。黙っていてもそのうち分かることなんだから」
「だからそのタイミングがどうして今なのかと言ってるの!」

 私たちのやり取りを聞いて、フロア中が騒然としてしまっていた。

「なになに? マジなのかよ?」
「何でおまえら二人が?」
「いつの間にそういう関係になったんだよ?」

 当然、そんな声が聞こえてくる。私が会社を辞める理由を瀬谷課長に迷惑をかけた責任をとるためだと思っているみんなにとって、いきなり私と遠野が結婚という飛躍し過ぎた話に驚くのも無理はない。
 怖いもの知らずの遠野。ここまでの人間だったとは、まったく想像がつかなかった。
 そして、さらに遠野の暴走は続く。

「俺と麻衣は結婚します。つまり、麻衣は寿退職なんです。巷では変な噂が流れておりますがそんなのはデマです。ついでにどうか俺たちを温かく見守って下さい」

 田中部長もこの遠野の暴走にあたふたしている。私に向けられる視線は“どういうことだ?”と言っているよう。
 いえいえ、私も聞いていませんでしたから。結婚する方向にはなっているけど、だからって、今すぐのことじゃないのに。結婚云々の前に『とりあえず、つき合おう』と言ったのは遠野でしょ?

「遠野。おまえ、急に何を言い出すのかと思ったら。そういう話は上司に先に報告しろ! バカ者!」

 田中部長が一喝した。こんなに怒っている田中部長を見るのは初めてだった。

「田中部長には一番に報告に行く予定だったんですけど、みなさん誤解しているのが俺的に許せなかったんです。それで、この際、一緒くたでもいいかと思いまして……」

 そう言って田中部長の怒鳴り声を冷静にかわす遠野。対して、みんなはこの状況をおもしろがって、ワーキャーと騒ぎ立てていた。
 どうしよう、こんな騒ぎになっちゃったよ。
 だけど、その一連の出来事を瀬谷課長が目をまん丸にして見ていたのが視界に入った時、遠野の考えを感じとった。
 遠野はこうなることを想定しながら、あんなことを言ったんだよね。そんな度胸、私にはないよ。ああ、やっぱり私は遠野には敵わないんだなあと、しみじみ思った。


 ◇◆◇


 こうして私の退職日は波乱のまま幕を閉じようとしている。
 営業部のみんなからはからかわれ、他の部署の人からもからかわれ、とんだ一日になった。その中でも騒ぎを聞きつけて営業部に駆けつけてきた竹ノ内さんが一番厄介で……

「どうして遠野くんのカノジョが佐々木さんなのよ!?」
「ご、ごめんなさい」
「つまり、受付嬢の噂はカモフラージュ?」
「それは、単なる勘違いでした。私もそうでしたけど、他のみなさんも同様に勘違いされたみたいですね」
「なら、瀬谷課長とのことは、何だったのよ? ラブホの噂聞いた時、もうびっくりだったんだから」
「あれはあれで、まんざら嘘でもなくて……」
「はあ? じゃあ、佐々木さんたちはいつからつき合っているのよ」
「それは……」

 “一ヶ月ほど前です”と言ったら、どう思われるだろう。まさか、たった一ヶ月で結婚だなんて、信じてくれるかな?

「つい、最近ということよね?」
「はい、まあ。でも、騙していたわけじゃないんです。展示会の時はまだ、そういう関係じゃなかったんです」

 結局、自分で白状してしまった。
 でも、仕方ないよね。竹ノ内さんだって、遠野のこと、本気で好きだったんだから。誤魔化すのは失礼だ。

「本命は佐々木さんだったのかぁ」
「いろいろありまして、ずっと喧嘩ばかりだったんですけど、気づいたら好きになっていました」
「で、両思いだったわけね。でも、遠野くんてさあ、ずっとカノジョがいなかったじゃない? だから、もしかすると片思いの子がいるのかもしれないとは思っていたんだよね」

 溜息をひとつ、ふたつと漏らしながら、竹ノ内さんが沈んでいった。

「ごめんなさい」
「どうして、謝るのよ? そうやって謝られると惨めになるのが分かんないの?」
「……そう、ですよね」

 その通りだと思い、思わず「ごめんなさい」ともう一度、口走ってしまい、慌てて口をつぐむ。

「でも、まあ、あたしが勝手に好きなって、勝手に振られただけだから。佐々木さんに八つ当たりしても仕方ないんだよね」

 誰かが誰かを好きになることは、みんなが幸せになるとは限らないんだよね。パートナーのいない人を好きになっても、こうして人の心は傷ついてしまう。
 人は知らず知らずのうちに誰かを傷つけていることがある。竹ノ内さん以外にもきっと私は誰かを傷つけているはずだ。

「結婚はいつなの?」
「まだ具体的には何も決まってないんです」
「さっさと決めちゃいなさいよ。じゃないと、諦めがつかないでしょ」
「……はい」
「おめでとう」
「え?」
「結婚おめでとうって言ったの!」
「竹ノ内さん……」

 強引に作った彼女の笑顔を見ながら、この人はスゴイと思った。
 私だったら言えるだろうか。例えば、遠野の相手が聡子さんだったとして。その時、私は言えたのかな?

「ありがとうございます……竹ノ内さん」
「もう! なに泣いてんのよ。おめでたいことなんだから、ほら、泣かないの!」

 逆に励まされている私。竹ノ内さんのやさしさを感じながら泣きじゃくっていると、それに遠野が気づいて近寄って来た。

「まったく、泣き虫だな」

 大きな手が伸びてきて頭を撫でられる。「よしよし」と言われながら、余計に涙が出てきた。
 うれしくて……いいのかな? 私、こんなに幸せで、いいの?


 ◇◆◇


 私が会社を辞めたあとも遠野はもちろん会社に残り、順調な毎日を過ごしていた。

 そして私が会社を退職した直後のこと、遠野にある出来事が起こった。
 見積もりの入力ミスで出入禁止を言い渡されていた丸一産業。そこの常務さんと和解することができたのだ。

 ──以前、遠野にラブホテルに連れ込まれ、プロポーズされた日

 遠野が聡子さんとの噂の真相を話してくれた。

『常務はこんぶ茶が好物らしくてさ。しかも粉末じゃなくて“生の”こんぶ茶以外は飲まないらしい』
『生だと普通のスーパーでは売っていないよね。見かけたことないから』
『それがデパートで扱っているらしいんだ』
『それで聡子さんと一緒に買いに行ったんだ』

 聡子さんは以前、丸一産業の秘書課にも派遣されていたことがあって、常務とも面識があったそうだ。それで遠野が丸一産業の常務を怒らせたという噂を聞きつけた聡子さんが遠野にその情報を教えたくれたのだ。

『俺もさ、最初、まさか生こんぶ茶で常務が釣れるとは思わなかったんだけど。これが本当に釣れちゃったもんだから、あの子に足を向けて寝られないよ』

 この嘘みたいな本当の話は社内でも伝説となり、しばらくの間、生こんぶ茶が社内でブームとなったそうだ。

『生こんぶ茶はあんまり関係ないような気がするけど?』
『男心を分かってないなあ。常務は煙草も酒もやらないんだ。そういう男の唯一のこだわりはとことん深いんだぜ』
『馬鹿馬鹿しい』

 ──これが遠野と聡子さんの噂の真相。
 私は当時、こんな経緯に翻弄されて落ち込まされていたのだと思うとさすがに溜息しかでない。

 だったら噂の否定くらいちゃんとしなさいよ! そのことで文句を言ったら『あの段階で生こんぶ茶の話をしても誰も信じないだろ』と、もっともなことを言われ、言い返すことができなかった。


 そして私の退職した日の帰り際もそうだった。思い出すと恥ずかしいその日の出来事とは──

 仕事の残っていた遠野を置いて先に帰った私は、ロビーで聡子さんに声をかけられた。『お疲れ様です』と私に微笑んだ聡子さんは私服姿で、私をここで待っていてくれたのだと分かった。

『おめでとう。今日のこと、このビル中に広まっていますよ』
『お恥ずかしいです』
『でもよかったです。お二人がうまくいって。遠野くんから、全部聞きました?』
『はい』
『私が遠野くんに告白したとか、つき合っているという噂。ほんとびっくりでした。でもあの時は佐々木さんが遠野くんのことを好きだなんて知らなかったので、もっと早く訂正すればよかったと思っていたんです』
『もういいんです。元はと言えば、私が悪いんですから』

 あれは勝手に勘違いしていた私が悪い。私の方こそ、遠野にちゃんと訊くべきだった。

『でも、遠野くんが佐々木さんを好きなことはなんとなく知っていたんです』
『そうなんですか?』
『佐々木さんと瀬谷課長の噂を本社の総務の人から聞いた時、遠野くんにこっそり訊いてみたんです。お二人は同じ部署だったから』

 瀬谷課長との不倫の噂。あれは総務の人から聞いたの? 遠野を通してじゃなく?
 聡子さんの言っていることがピンとこなくて、エレベーターでのことを思い出していた。確か、“遠野くんも心配していたわよ”と言っていた。あれって……

『そうしたら、遠野くんが言ったんです。あの噂は根も葉もないでたらめだって。佐々木さんのことを必死に庇っていました』
『遠野が……』

 もしかして、また私、勘違いしていたの? 聡子さんは、総務の人から聞いた噂を、ただ遠野に真相を確かめていただけ?

『それで、遠野くんは佐々木さんのことが好きなのかなあって思ったんです。それからしばらくたって……ロビーで三人で一緒になった時に、佐々木さんも遠野くんが好きなのかもと思ったんです』
『それでエレベーターで私にあんなことを?』
『つい。余計なおせっかいでしたけど』

 そういう意味だったんだ。あの日、勘違いして二人に嫉妬していた私。聡子さんは、あの時に私も遠野を好きだと気づいた。つまり、遠野が私を心配していたことを教えようとしてくれただけだったんだ。

 ──そんな経緯だったんだよね。

 なんかもう、私と遠野は二人でとことん空回りしちゃって。今思うと笑い話になるけど、あの頃は些細なことで落ち込んだり喜んだりしていたな。一生懸命に恋していたんだなと、最近のことなのに懐かしい気持ちになってしまう。
 でも素敵な恋だった。遠野と結ばれた日、この人を大切にしたいと思った。絶対に離したくないと、強く思ったんだ。
            



[2013年3月23日]

 
 
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